イージー・ゴーイング 山川健一 -147ページ目
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部屋に置かれた物はすべて魂をもっている

 好きなものを書くノートは、なんでもいいというわけじゃない。
 あるいは好きなものを書くノート型のコンピュータは、なんでもいいというわけじゃないんだ。好きなものリストがたまってくると、それはやがてあなた自身に限りなく近いとても大切なものになる。
「わたし、こんなに大切なことを書くのに、なんでキティのノートなんか使っちゃったんだろう?」
 その時に後悔しても、遅いよ。
 コンピュータならデータを移すことは可能だけれど、それにしたって愛機とすごした時間はとり戻せない。
 心から愛せるデザインと機能をもったノートやコンピュータを選ぶべきだ。
 ノートというのは象徴で、他のこともぜんぶ同じだと思う。
 たとえば自分の部屋は、なにからなにまで自分の好きなもので構成すべきだ。そういうことをおろそかにするところから、自分を見失う迷路にさまよいこんでしまうのではないだろうか。
 たとえば友達が、趣味の違う本やCDやゲームを持ってきたら、一日も早く返すべきだとぼくは思うね。
 床や壁の色はなかなか選べないだろうが、それもカーテンや敷物でカバーすることはできる。本棚に立てかけてある本や雑誌、カウンターテーブルの上の小物、紅茶カップやコーヒーカップ、もちろん紅茶やコーヒーの銘柄もだいじだ。
 携帯電話のデザイン、ストラップ、一枚のシャツやセーターから靴にいたるまで、べつに高価なブランド品である必要はまったくないんだけど、自分が好きになれるものである必要がある。
 壁に架ける小さな写真や、ポスターにしてもそうだ。
 あるいはノートに向かう時に、「壁に架ける」と書くか「壁に掛ける」と書くのか、「壁にかける」にするのかということも大切だ。
 こだわり、というかな。
 若い人のなかに和風趣味が流行っているらしく、余計な物を置いておくのが嫌いだという人が多い。きれいな畳に布団を敷いて寝て、朝はたたんで押し入れにしまう。座り机に近くで採集してきた苔の小さな鉢を置いて鑑賞する。本棚には、歴史の本しか並んでいない。それもまた、確固としたスタイルだ。
 今は、物が溢れている。だからぼくらの部屋も、ごったかえすことになる。
 そういう時は、不要なものを処分してしまうんだ。
 先日、ぼくも本や家具やCDやビデオやカセットテープやスピーカーやコンピュータやプリンタなどを大量に処分した。友達にあげたり古本屋に売ったり、捨てたりしたんだ。
 シンプルになった部屋を見て、思ったものだよ。
「ああ、そうそう。これが今の俺なんだよな」
 おかしなことを言うようだが、言葉に宿る魂を言霊というように、物にも魂というものがあるんじゃないだろうか。
 ボーイフレンドやガールフレンドにもらった大切なプレゼントでも、自分が好きになれないものだったら、正直にそう伝えて処分しよう。自分はなぜこういう絵柄のカップが好きになれないのかという話は、あなた自身を相手に伝えることにもなる。
 部屋に置かれた物はすべて魂をもっていて、お互いに影響し合っているのではないか。
 そしてもちろん、彼らの魂はあなたの魂と、あなたが深く眠った頃にお話しているんだよ。
 だから、嫌いなものはなにひとつ置いておかないほうがいいんだ。
 ちゃんとした部屋でずっと暮らしていると、ちゃんとした自分になれるものだよ。
(Illustration and Photo by Hiromi)

好きなものをノートに書いてみよう

 携帯から、こんなメールをもらった。
 差出人は、『君へ。』(ダ・ヴィンチブックス)というアンソロジーに収録された「イージー・ゴーイング」を読んでくれた、高校に通う女の子だ。
「私は自分というものが良く解りません。掴み所が全く無い様に思えるのです。
 それは短い人生しか生きていないからかも知れません。
 でも時々、自分が解らないという不安で一杯になるのです。先生は本の中で「ありのままの自分を認める」「今を大切にする」と書いていらっしゃいました。ありのままの自分と向き合うにはどうすればいいのでしょうか? 過去にとらわれている私はどうすれば「今」を大切に思えるのでしょうか? 忙しいとは思いますが、返事を頂ければ幸いです。」
 ぼくは、こんな返事を書いたんだ。
「自分を知るには、自分が好きなものを列挙していけばいいのではないかとぼくは思います。好きなものが、自分そのものなのです。好きなものがひとつ増えれば、自分の豊かさも増える。難しいことだけれど、嫌いなものを少なくするように努めればいいのではないでしょうか。答になってないかもしれないけれど……」
 携帯メールは限られた文字数しか書けないので、ぼくが彼女に伝えたかったことを、ここにくわしく書こう。
 自分というものがよくわからないというのは、大人も若者も、男も女もみんな同じだよ。ただし、人間というものにはDNAという設計図みたいなものがあり、それから逃れることは不可能なんだ、ということがわかってしまってからは余計に問題が複雑になってしまった。
 さらに若い頃は「これが私の人生だ」という確定的な経験が少ないので、よけいに自分というものを理解するのが難しいのかもしれないね。
 自分、自己というものの輪郭を明瞭に見つけることは、いずれにしてもとても難しい。けれども、自分らしさ、ということになると一気にハードルは低くなる。
「私とは何か?」ではなく、「私らしさとは何か?」と考えると、たとえば一人の十代の女の子の口元にも微笑みがもどるのではないかという気がするんだ。
 ジーンズとスカートとどっちが似合うか。
 ショートヘアとロングとどちらが似合うか。スニーカーとパンプスなら?
 あの映画の主人公は命を捨てて恋人を守る道を選択したが、自分なら?
 自分らしさとはもちろん自分そのものではないが、それらをたくさん集めていくと限りなく自分に近い存在になるのではないだろうか。
 そこでものは相談だが、どうせ自分らしさを集積していくのなら、いい部分を育てていくほうが賢明なのではないか。
 そのために有効なのが、自分が好きなものや好きな映画や音楽、詩や小説をひとつずつ丁寧に思い出していくという方法だ。
 好きな絵、好きな詩、好きな音楽。
 あるいは、好きな学校の科目。
 好きな友達。
 好きな異性。
 そういうものは、自分そのものではないけれど、「自分が近づきたい存在」なんだと思う。好きだ、という気持ちを自分の中で育てていければ、いつの日か「自分」と「好きなもの」はほとんどイコールになる。ぼくはそう思うね。
 たとえばぼくの場合なら、古い自動車や音のいいギター、ブルースやローリング・ストーンズや印象派の絵画、マッキントッシュやゼラニウムやアル・パチーノ、ジュリア・ロバーツ、中原中也や太宰治やファイナルファンタジー7のクラウド……ときりがない。
 こうしたものに出会うために、ぼくは生きてきた。
 人生というものは古い仕事部屋に似ていて、そこには無駄なものや他人から見ればガラクタにすぎないものが大切に保管されている。古い自動車やブルースはもちろんぼく自身ではないが、ぼくのなかのいい部分が心から愛してきたもので、それなしには今の自分というものは存在しない。
 もちろん、嫌いなものを数えるしかない状況というのはあるかもしれない。
 あるいは、そういう時期というものがある。
 でもそんな時でも、ほんの小さなものでかまわないから、好きになれるものを探してみる。心から愛したものや人は、たとえいつかそれを失ったとしても、もはや自分自身と一体化しているものだよ。
 そして大切なことは、好きなものを思い出したら、そのままにせずにちゃんとノートに書いておくこということだ。
(Illustration and Photo by Hiromi)

イージーゴーイング

 何年か前のことだ。三十代の女性の友達が、お茶を飲みながら言った。
「急に目の前にカーテンがおりてきたような感じなの。何を食べても、砂を噛むようでちっとも味がしないし」
「疲れてるんだよ。ちょっと休めばよくなるって」とぼくは答えた。
「でも、大切な仕事もあるし」
「じゃあ、その仕事をやってしまってから休む、と。頑張れよ」
 彼女は、曖昧にうなずいた。
 後でわかったことなのだが、彼女は鬱病の初期症状だった。そういう状態にある人に「頑張れ」という言葉をかけるのはいちばんいけないことなのだそうだ。プレッシャーになってしまうからだ。
 それを知った時、ぼくは激しく後悔した。だが、もう遅い。文章を書くことを仕事としているくせに、言葉がある種の物質的な力を内に秘めているのだということを、ぼくは初めて思い知ったのだった。誰かと話す時自分が発する言葉に注意を払うようになったのは、その時からだという気がする。
 考えてみれば、たいへんな思いをしているのは、ぼくの知人のその女性だけではない。こんな時代だ。今日一日を過ごすだけでも、たいへんなエネルギーを必要とする。経済不況で仕事がないとか、株価が暴落したとか、お金の話ならまだいい。貧乏であることを恥じる必要なんて、個人にも国家にもぜんぜんないと思うのだ。
 そうではなくて、これがはっきりとした自分だ、というものがないから不安が生じる。自分らしく生きているだろうか。その前に、自分ってものがここにちゃんと存在しているだろうか。自分と友達を隔てるものが、ちゃんとあるのだろうか? 自分という存在が独特の個性を持っていて、その個性を愛してくれる人がいて、だからこそ生きていく価値がある。それがなければ、生きていく意味なんてゼロだ。でも、そんな個性を自分は持っているだろうか。
 一九五三年に遺伝子というものが発見され、人間もまたコンピュータのように情報の集積にすぎないのだということが証明された。喜びも怒りも悲しみも、単なる脳内現象にすぎない。遺伝子を改良されたジーンリッチと呼ばれる人達が、既に生まれてきているのである。そんな今、はっきりとした自分を感じとるのは至難の業だ。
 ありのままの自分を認める。明日のために今日を犠牲にして頑張るのではなく、今を大切にする。それこそが、もっとも大切なことなのだ。もう、誰も頑張る必要なんかないのではないだろうか。ぼくは、そう思う。
 たとえば誰かが、作家を目指している。でも、なかなか原稿が進まない。この頃ぼくはそんな相談を、よくメールで受ける。何と答えてあげればいいのだろうか。あなたの恋人が深夜電話をかけてきて、会社の仕事がうまくいかないで、いっそのこともう退職してしまいたいな、と漏らす。その時あなたは、どんな言葉をかけてあげればいいと思いますか? 今のぼくなら、こう答えるだろう。
「無理しないでね」
 そんな時にかけてあげる言葉こそが、その人の個性なのだと思う。コミュニケーションがなければ、誰も生きてはいけない。
PS ところでぼくの女友達は、その後ずいぶん良くなっていい仕事をしている。

※「イージー・ゴーイング/悲しみ上手になるために」は10月末に単行本として刊行される予定ですが、その中でこの最初の項目だけは「ダ・ヴィンチ」に掲載され、「君へ。 つたえたい気持ち三十七話」(ダ・ヴィンチブックス)に収録されました。他はすべて書き下ろします。

イルカのように泳ぐことができないあなたへ

<はじめに……イルカのように泳ぐことができないあなたへ>
 ぼくらはイルカのように自由に泳ぐことができない。
 鳥のように空を飛ぶこともできない。
 ネコのように気儘な一日を過ごすことさえできない。
 だから海の深さに想いを馳せ、空の青さに憧れる。
 そして時々、伸びをするネコに向かって、こんなふうに呟いてみたりするのだ。
「こんな時間にどこへ行くつもりだよ。君が、うらやましいよ」
 人間ほど不器用な生き物は他に存在しないのではないだろうか。
 他の生き物たちが、環境に合わせて自分を変えることによって生き延びてきたのに対し、人間は太古の昔からそれほど進化したわけではない。むしろ道具というものを使い、環境のほうを変えることによって生きてきた。木を切り倒して家を建て、道路を作り、大地を走る道具や空を飛ぶ道具を発明した。
 驚くべき人殺しの道具も、今では無数に存在する。
 とうとう人間は、地球やその上の生物や、自分たち自身を滅ぼしかねないところまできてしまった。
 唖然とするほどの不器用さだよね?
 でも、自分は不器用なんだ、とあきらめるとほっとするところもある。あなたもぼくも、どうせイルカのように泳ぐことはできないのだ。
 頑張ってるのに、うまくいかないことだってあるだろう。
 それでも、いつかイルカのように、と流行りのポジティブ・シンキングを信じてもっともっと頑張っているあなたはとても真面目で頑張り屋さんなんだね。
 でも、いつもどんなときでもずっと頑張りつづけることは、どんな人だってできないんだよ。
 時には、ちょっとばかり海岸にでて、日なたぼっこしてもいい。
 不器用なぼくらが、ネコのように気儘にというわけにはいかなくても、もう少し気楽に生きていくにはどうしたらいいのだろうか。
 この本は、そういうことを考えるために書こうと思っている。
 いっしょにお茶してるつもりで、あなたがつき合ってくれるのならうれしい。
(Illustration and Photo by Hiromi)
http://www.sweet-bluestar.com/
http://blog.melma.com/00122450/

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